30位:重盛さと美(タレント)
重盛さと美は、グラビアモデルとしてキャリアをスタートさせた後、『めちゃ²イケてるッ!』などのテレビ番組で活躍するタレントとして知られています。2013年に『フライデー』誌が中学生時代の写真を掲載したことで話題になりました。その写真では、茶髪に染め、いかにも「特攻服」風の衣装を着ている姿が写っていました。この服装がバイカーグループのスタイルに似ていたことから、かつてバイクギャングの一員だったのではという噂が広まりました。しかし重盛本人はこれを否定しています。彼女によると、その写真は卒業後にクラスメートたちと「派手に卒業を祝おう」と遊び心で学校を練り歩き、その後博多駅で祝福の声を上げるために撮られたものだということです。
その後、彼女は青春時代の一部を隠さず、当時の軽妙なエピソードを語るようになりました。例えば、中学時代のガールフレンドが近隣の町でグループのリーダーだったという話や、博多の幼馴染が語った、コンビニ店員がトイレでマニキュアを落としていた彼女を誤解し、違法行為と勘違いしたことで一時警察沙汰になったエピソードなどです。現在は穏やかで落ち着いた性格ですが、これらの話はかつて手に負えない一面があったことを示しています。バイカーギャングの噂が事実かどうかに関わらず、ファンは彼女が30歳を過ぎてもさらに魅力を増したと語っています。整形疑惑も囁かれますが、多くの人は彼女が今後も独自の地位を芸能界で保つだろうと考えています。
29位:哀川翔(俳優)
哀川翔は、2004年公開の『ゼブラーマン』などの映画や、多数のアルバムリリースで知られる俳優です。若い頃からタフガイとしての評判が高く、ティーン時代は新宿で「伝説のファイター」として広く知られていました。彼自身の話によると、新宿で夜明けまで飲み、その後、地元のバイカーグループのメンバーに帰宅のための乗車を頼むことがあり、バー間の移動でも非公式タクシーのように扱っていたそうです。彼はこれらのライダーたちを「意外に礼儀正しかった」と述べています。また、六本木で光GENJIの諸星和己と車に乗っていた際、突然バイカーに囲まれたエピソードも知られています。哀川は諸星に安全のため車内にいるよう指示し、自ら一人で外に出て冷静にグループを退かせたといいます。
さらに19歳の時、竹下通りで約300人と約100人の二つのバイカー集団が衝突した際、血だらけの男が助けを求めて駆け寄り、哀川が参加したという話も有名です。小規模なグループは150人ずつの大規模な挟撃で制圧されたと報じられています。その後1984年に哀川はストリートパフォーマンスユニット「一世紀セピア」を結成し、竹内力とともにVシネマ界の主要人物として認識されました。2004年には100本目の映画『ゼブラーマン』に主演し、2024年でも探偵役を含む映画に出演しています。
28位:飯島直子(俳優)
飯島直子は、ジョージアコーヒーのCMでブレイクし、「元祖癒し系女優」として知られるようになりました。幼少期は内気だったといわれますが、中学時代に横浜で目立つ行動を取り始めました。当時、川崎周辺のバイカー集団と関わりがあったとする話もあります。当時から非常に魅力的で、地元のギャングのリーダーと交際していたという噂もありました。非行少年やバイカーグループの間で人気があり、デートに来なかった彼氏が少年院に送られていたという話もあります。これらの逸話は「早熟な非行タレント」としての評判につながりました。
飯島自身は過去を隠そうとはせず、テレビでは明石家さんまに幼少期の写真を求められ、非行全開の写真を提示したエピソードが語られています。高校卒業後、近所のカフェでアルバイトをしているところを発見され、1988年に芸能デビュー。デビュー後も恋愛は注目され、20歳で横山泰の息子・木村和也と交際したと報じられました。1989年、交際中にタクシー運転手とのトラブルで木村が逮捕される事件もありました。現在でも、情熱的で荒っぽい男性を惹きつけるタイプとして描かれています。
27位:土田晃之(お笑い芸人)
土田晃之は、コンビ「U-turn」のツッコミ担当として知られるお笑い芸人です。埼玉工業大学深谷高等学校出身で、当時は学業が厳しい環境だったといわれます。土田はかつて「シンデレラ」というバイクギャングと関わっていた可能性があるとされています。非行時代の写真も公開しており、ポンパドールの髪型で不良ポーズを取った姿が確認できます。1年生の時に学校での事件で停学になったこともあるそうです。一方で、彼の本来の性格は内気で漫画好きとされ、非行者同士のトラブルは面倒でほとんど参加せず、学校行事には参加していたといいます。
1991年4月、東京アナウンス学院在学中に土嶋守宏とU-turnを結成。土田の非行歴と、土嶋の優等生・生徒会長というコントラストが魅力とされました。しかし次第にコンビ内での緊張が高まり、土田の元非行傾向がパートナーとの厳しいやり取りに影響し、2001年に解散。共演者に苛立つこともあり、反抗的な一面を見せることがあります。「仲良くないほうがカッコいい」と思っていた過去も明かしており、ファンは彼の非行面がどれほど和らいだかを注目しています。
26位:かおり(アイドル)
かおりは1990年代、バイカー文化雑誌『Teens Road』で注目されました。栃木を拠点とする女性バイカーグループ「北関東ハードボイルド連盟・貴族院女子部」の2代目リーダーとして知られ、カリスマ的存在でした。最終的には年上のメンバーにリーダー役を譲りましたが、事実上の創設者と見なされることが多いです。台湾出身ということでいじめに遭った経験があり、中学時代から万引き、無免許運転、シンナー吸引、喫煙などで荒れた行動を取りました。高校には進学せず、ホステスとして働く中で「レディースガールになれ」と勧められ、独自の道を歩み始めました。
バイカーグループでの経験は、中学時代よりも規律が厳しく、生活も整然としていたといいます。かおりは18歳で貴族院女子部を退団し、1984年にレコードデビュー。約2年後にグループは解散しました。その後、事務所解散や21歳で妊娠、結婚を経て芸能界から離れました。後に離婚し、2人の息子を一人で育てました。2021年にKnuckles TV出演を機に再注目され、2023年には自伝を出版し、公の場で再び存在感を示しました。
25位:大島優子(アイドル)
大島優子は、アイドルグループAKB48の「神7」のメンバーの一人で、反抗的な青春時代で広く知られ、地元のグループ「イエローE」を率いていたといわれています。彼女の反抗心は中学2年生の頃に始まったとされ、正確な理由は不明ですが、当時彼女を知る人々によると、両親の離婚が影響した可能性があり、金髪に染め反抗的なキャラクターを演じるようになったそうです。インタビューでは、大島自身、髪の色のせいで授業に出られなかったこともあったと語っています。また「反抗的な友達を連れ戻しに出かけたら、ハンターが逆に狩られた」という言葉も残しています。外見について注意されても無視することが多く、看護室で一日を過ごすこともあったといいます。アイドル時代には非行をテーマにした映画にも出演し、その演技力の説得力が高く評価されました。
大島は後にAKB48のキャプテンに就任し、大人数かつ多様なメンバーをまとめる役割を担いました。この経験は、以前の非行経験によって培われた能力に起因する可能性があります。グループ卒業後は女優として多数の映画やテレビドラマに出演。多くのファンは、厳しいヒエラルキーや複雑な人間関係を経験した元非行少女としての経験が、過酷な芸能界を渡り歩く力につながっているのではと推測しています。
24位:SHUN(元EXILE)
SHUNは、元EXILEのボーカルで、2004年以降、清木場俊介として活動しています。中学時代から反抗的な傾向があり、高校時代には山口県のバイクグループ「つふう暴威」を率いていたといわれています。1年生の時、教師との衝突が原因で退学処分を受けたとの報道もあり、教師が兄を批判したことが発端だったといわれます。学校を離れた後は、ある程度更生し、足場職人や大工として働いた後、19歳で自身の建設会社を設立しました。
SHUNは音楽活動を続け、2001年にEXILEに加入。芸能界入り後も情熱的な性格は変わらず、2006年1月には事務所スタッフとのトラブルで重傷を負ったとの報道もあります。同年中にEXILEを脱退。公式説明では「音楽性の違い」とされていますが、一部の報道では行動上の問題も影響しており、グループの代表HIROも管理に苦慮したといわれています。
23位:黒瀬純(お笑い芸人)
黒瀬純は、お笑いコンビ「Punk Boo Boo」のツッコミ担当で、中学・高校時代を福岡で過ごし、地元のバイカーグループ「赤島」に加入していたといわれています。最終的にギャングの副総長となり、当時の写真がテレビで紹介されたこともあります。中学時代は学校にほとんど通わず、成績表で数百日欠席が発覚し、親に長期欠席が知られました。この頃、友人とバイクに乗ったり、シンナーやタバコを試したりする非行少年として知られるようになりました。中には活動中にクラスメイトをからかうこともあったそうです。
副総長への昇進は、体力よりもユーモアが評価された結果で、機知に富んだ発言が選挙で支持されました。高校2年でギャングを離れ、就職後、1997年に佐藤哲夫と「Punk Boo Boo」を結成。幼少期の経験が形成したコメディ才能は、2009年のM-1グランプリなどの大会でも発揮されました。
22位:前田希美(モデル)
前田希美は、モデル・タレントで、情報番組『おはスタ』のおはガールとして出演していました。現在は純粋で無垢なイメージで知られますが、学生時代、地元では恐れられる非行少女だったという噂があります。バイクギャングに関わり、周囲を威圧することもあったといわれます。遠くからでも喧嘩を止めに駆けつける勇敢な話もありますが、その正確性は不明で、都市伝説化しています。
前田は小学校6年生からモデルを始め、中学1年生でおはガールに。学校生活と早朝の芸能活動を両立させ、午前2時30分に起きてスタジオ撮影に行き、登校する日々を送りました。その後、YouTuberに転身し、2025年に浦和レッズの渡邊龍馬と結婚。結婚発表には祝福のメッセージが殺到し、ファンから「美しいカップル」と称賛されました。現在は健全で無垢なイメージを保っており、非行の過去は遠い記憶のように感じられます。
21位:YOSHIKI(アーティスト)
YOSHIKIは、音楽グループX JAPANのリーダーで、中学・高校時代に反抗的な傾向があり、バイクギャングに加入していたといわれています。喫煙や非行グループとの交友、時折の喧嘩といった荒いイメージがある一方、学業も真面目に取り組んでいました。語彙集をギャングの会合に持参し、母親との約束でシンナーや薬物の使用、窃盗、暴力行為を避けるなど自己規律を守りつつ、受験勉強もしていたとされます。
学業の成果により、地元のトップ校に合格。入学式では真っ赤な髪と膝丈の制服で登校し、「誰か問題があるなら言ってこい!」と全10クラスに宣言しましたが、名門校で居心地の悪さも感じたといいます。大学時代は3年間ブロンドポンパドールに髪型を変え、卒業時には木刀を持って職員室に「お礼参り」に行ったエピソードもあります。推薦入学を経て大学に入学しましたが、最終的には中退し、芸能界入りを選択しました。
20位:佐田正樹(お笑い芸人)
佐田正樹は、お笑いコンビ「Bad Boys」のツッコミ担当で、福岡の若者文化の中で中心的存在だったといわれます。高校時代、「福岡連合二代目」と地元最強とされるバイクギャング「幻影」を率いていたそうです。中学時代から恐れられる存在で、入れ墨や時計店での事件もあったとされます。高校では、30対30の先輩・後輩対決で下級生を勝利に導き、非行サークルで認められました。多くの逸話が、彼の対決能力を強調しており、いわゆる「山一対一」の勝者は車で帰宅できる権利を得ました。しかし逮捕により、楽しみにしていた高校の修学旅行に参加できませんでした。
逮捕後、佐田は拘置所に送られましたが、担任教師が介入し入院させられ、問題なく卒業できました。その恩を受け、卒業後はバイクギャングの世界から離れる決意をしました。1997年4月、福岡連合の元メンバーである大溝清人と「Bad Boys」を結成。佐田は入れ墨を保持し、彼の色彩豊かなエピソードは現在も続いており、2023年にはこれまで公表していなかった子供の存在を明かしました。彼は公に子供を認め、謝罪し、妻とパートナーを支える意向を示しました。
19位:鈴木沙理奈(タレント)
鈴木沙理奈は、1992年に第6回全日本国民的美少女コンテストで優勝し、1996年から2000年の間に3枚のアルバムをリリースした歌手です。彼女は長年、自分の興味に没頭する傾向があり、その一つが「ヤンキー活動」だったといわれます。関わった可能性のあるギャングは不明ですが、学生時代に「社会経験」と自己表現の一環としてバイクに乗っていたと語っています。また、高校時代の彼氏は1歳年上のバイクギャングのリーダーだったといいます。交際期間は短かったものの、芸能デビュー後、友人たちは「それがあの子だ!」と興奮したと振り返ります。
現在でも、鈴木は過去のバイカー文化に関する言葉を時折引用します。2022年のドラマ『難波MG5』では、非行家族の母親役を演じ、後輩俳優たちに「ラリルレロ」の舌巻きなどを交えた反抗的役柄の演技指導を行いました。その演技は自然で、追加の演技指導はほとんど不要とされました。劇中では、父親役をバイクギャング経験を持つ宇梶剛士が演じています。バラエティ番組での遊び心あるイメージは作られたものかもしれませんが、彼女の過去の逸話は、非行やバイクギャング文化との実際のつながりを示しています。
18位:綾小路翔(アーティスト)
綾小路翔は、音楽グループ氣志團のメンバーで、高校時代、仲間の影響で非行活動に関わり、バイクギャングにも加入しました。本人によると「特にバイクに興味はなかった」が、地元の流行に合わせるため加入を余儀なくされ、パーマもかけたそうです。「木更津サリー」というバイカーグループに所属していましたが、主に友人関係で参加しており、ギャング活動は特に活発ではありませんでした。中学時代には周囲の非行友達が増え、この頃からバンド活動を始めました。
音楽はすぐに彼の主軸となり、近くのマザーファームでアルバイトしながら演奏を続けました。クラスメイトは彼を心底優しく、見た目ほど非行ではなかったと評しています。高校卒業後は大学に進学せず、音楽活動を続けながら職を変えつつ、21歳で氣志團を結成。2002年、テレビドラマ『木更津キャッツアイ』に出演しバンドは広く認知されました。デビューシングル「One Night Carniva」がヒットし、人気ロックバンドとしての地位を確立しました。
17位:本間裕司(俳優)
本間裕司は、『ミスターウォー』や『戦場のクリスマス』などの映画で知られる俳優です。俳優活動以前、東京を拠点とするバイクギャング「ブラックエンペラー」に関わり、最終的に第3代リーダーとなったといわれます。高校中退後に加入し、数年間活動。新宿支部長を務め、後に第3代名誉リーダーの称号を得ました。この間、「伝説のバイカー」としての評判を得ると同時に、西木野明のアシスタントも務めました。
本間は当初、俳優に興味はほとんどなかったものの、1979年に『19歳の地図』で1本契約の映画デビューを果たしました。この作品はブラックエンペラーが題材でした。翌年、第1回横浜映画祭で「新人賞」を受賞。その後サスペンスドラマやその他番組に出演し人気を築きましたが、1989年に俳優業を引退。早期引退の理由は不明ですが、元々俳優を志していなかったともいわれます。引退後の活動はあまり知られていませんが、1985年に大手芸能事務所スカイコーポレーションの女性社長と結婚。弟の本間健はレプロエンタテインメントの社長を務めており、業界の要人とのつながりも深いです。
16位:栗山直人(お笑い芸人)
栗山直人は、コンビ「アームストロング」の芸人で、2014年に解散しました。相方の安村翔悟は陽気な性格で知られています。栗山は幼少期から反抗的で、中学時代にパチンコをしたり、学校で喫煙を繰り返したりし、最終的に退学となりました。バイクギャングにも加入していたといいます。学校を辞めた後、大工として働き、北海道の地元ギャング「時雨」に関わりました。北海道の厳しい冬のため、活動期間中は特攻服を着用し、雪上を歩くことも許されていたとされ、卒業式もギャング内で行われたと語っています。
その後、安村が東京に移った際、2000年に二人でアームストロングを結成。2014年に解散しましたが、一因として栗山の傲慢な態度があったといわれます。解散後、吉本興業を退所し、「栗」の芸名を名乗り、「人気芸能タレント」として活動。以降、パチンコ・パチスロ関連番組やオンライン動画に出演し、現在は「パチスロライター」として活動し、ギャンブル関連分野に注力しています。
15位:中居正広(ジャニーズ)
中居正広は、アイドルグループSMAPの元メンバーで、中学在学中にジャニーズ事務所に入所しました。同時期、神奈川県を拠点とするバイクギャング「ピエロ」にも関与していたといわれており、複数の支部に分かれた大規模なグループでした。中居は中学2年生の時にピエロに加入し、授業をさぼってギャング仲間と海岸で過ごすことも多かったそうです。ジャニーズに所属する同級生の影響を受け、最終的に1987年に事務所に加入し、土曜日はバイクギャング、日曜日はジャニーズ活動を両立させていました。
ピエロは時折、東京に出向き対立するギャングと衝突することがあり、中居もいくつかの事件に参加したといわれています。特筆すべき事件としては、若き木村拓哉も「過激なギャングにいた」と認めており、SMAP結成後も中居は1992年に木村との喧嘩など反抗的なエピソードを重ねました。彼のバイクギャングの友人たちは、27時間テレビにも非行スタイルの服装で出演しています。中居が過去を抱えながらもジャニーズで成功できたのは、ジャニー喜多川の「YOUジョークにしろ!」という助言の承認があったからだといわれています。しかし、ジャニーズ事務所内にはあまり語られない別の要因があったのではという説もあります。
14位:ウド鈴木(お笑い芸人)
ウド鈴木は、お笑いコンビ「キャイ~ン」の芸人で、画面上の穏やかなキャラクターで知られていますが、かつてはバイクギャングの指揮官だったという噂があります。高校時代には、非行少年に人気の自動車雑誌『ヤングオート』を熱心に読んでいたそうです。同世代のお笑い芸人・出川哲朗が独身時代の鈴木と出かけた際、ギャングに遭遇したことがあり、鈴木はその威圧的な存在感と強い言葉で彼らを退けたといわれています。別の逸話では、相方の天野がギャングに名前で呼ばれた際、鈴木が追いかけて叱責したことも伝えられています。また、高校時代には柔道部に所属し、格闘技術の高さでも知られていました。
バイクギャングでの経験は限られた逸話しか残っていませんが、若い頃から非行少年として見られていたことは間違いありません。穏やかな性格ながらもめったに怒らない「優しい不良」とも形容されます。しかし2002年には、歌舞伎町で若者トラブルに巻き込まれ、法的手続きを要する騒動となりました。当初は冷静に対応しようとしましたが、友人が攻撃された際には身を挺して守り、彼の強さと恐れられる戦闘力を示しました。善悪はともかく、ウド鈴木は芸能界でも屈指の強烈なキャラクターとして知られています。
13位:小泉今日子(アイドル)
小泉今日子は1980年代の著名なアイドルで、2024年のドラマ『福国にもほどがある』にも出演しています。中学・高校時代には、女子グループに関与していたという噂があります。当時、制服を改造し、喫煙や飲酒も時折行っていたとされます。非行少女に人気の長スカートやリボンを好み、反抗的なイメージを形成していました。彼女の恋人も非行少年で、バイクギャングが卒業祝いに学校に現れたという逸話も残っています。
高校時代には、恋人のバイクで登校したり、男性友人とドライブに出かけるために授業をサボることもありました。反抗的な活動があったにもかかわらず、アイドルになることを志し、15歳で高校を中退して芸能活動に専念しました。後にアイドルと女優として確立されました。女子グループを率いたという話は誇張かもしれませんが、彼女が恋人とともに非行の環境に身を置いていたことは明らかです。ジャニー喜多川に脅されても立ち向かったという別の逸話もあり、意志の強い女性としての評価を裏付けています。
12位:江口洋介(俳優)
江口洋介は、東映映画『湘南爆走族』で名を馳せた俳優で、高校時代は問題児で、オンラインではバイクギャングに加入・指導していたとの噂があります。その時期、刺繍入りのランニング服を着て喧嘩に多くの時間を費やしていたといいます。中学時代は太っていましたが、高校入学後は毎日10km走り、最終的に約20kgの減量に成功しました。『湘南爆走族』のオーディションでは、キャラクター名と自身の名前が近かったことも選考の一因とされています。
映画では、紫色のポンパドールで登場し、役のために髪を染めていました。非行少年としての経験がキャラクター演技に説得力を与え、人気につながったといわれています。また、共演者の小田裕二もかつて湘南のバイクギャングを率いていたという噂があります。江口は俳優として活躍を続け、1990年代には当時「かっこいい」とされる長髪に。2025年現在も俳優およびYouTuberとして安定した地位を築いています。
11位:的場浩司(俳優)
的場浩司は、テレビ番組『高校大革命』などで知られる俳優で、芸能界入り前にバイクギャングに関与し、関東連合とも関わりがあったと公言しています。ただし、関東連合の会合に出席したり、対立ギャングと喧嘩したことはないといわれています。ボクシングと柔道の経験があり、ワンオンワンでは負け知らずで、投げ技や抑え込みを駆使し、グレイシー柔術が普及する前から高い実力を示していました。
反抗的な行動で警察に目を付けられたり、学校を退学しかけることもありましたが、「強くて公平」な存在として、弱い者をいじめず友人からも好かれていました。一部の噂では、彼の非行イメージは芸能活動のために作られた面もあるとされますが、当時のポンパドールと眉剃り姿を映したTV番組の映像からも、彼の過去は本物だったことが明らかです。ギャング内で目立たなかったとしても、その後の俳優業では非行役だけでなくコメディ役も演じ、現在も芸能界で活躍しています。
10位:摘み枝豆(お笑い芸人)
摘み枝豆は、お笑い芸人で「タケシ軍団」のリーダーです。学生時代には反抗的で、バイクギャングにも関与していたといわれます。当時の逸話では、戦闘時に「傘の先で目を狙う」などの戦術を用い、周囲から尊敬と恐怖を集めていました。
1986年、ビートたけしがフライデーの講談社に対峙した際、枝豆は関与しませんでした。たけしは全員に手を出さないよう指示していたといいます。枝豆はTV中継を注視し、ナイフを持って準備していましたが、たけしの電話で思いとどまったといいます。彼が関係していた右翼組織は山口組とつながりがありました。現在、枝豆はたけしの指名で芸能事務所TAPの社長を務めています。公の場にはあまり出ませんが、強い霊能力があり、幽霊話の活動も時折行っています。
9位:Hiromi(お笑い芸人)
Hiromiは、お笑い芸人・実業家で、トレーニングジムなど複数の事業を運営しています。八王子出身で、中学・高校時代にはバイクギャング「八王子スペクター」に所属していました。兄の非行が影響し、自然な流れでギャングに入ったとされます。高校時代には地元で有名な非行少年としての評判を得ていました。
18歳の時、友人2人と深刻な自動車事故に巻き込まれ、骨盤破裂や重傷を負い、医師から最悪の事態に備えるよう告げられました。奇跡的に回復し、これがコメディの道に進むきっかけとなりました。事故の原因は不明です。Hiromiはコメディアンとしてブレイクし、一時休止後、『有吉ゼミ』などの番組に頻繁に出演する人気タレントとなりました。住宅リフォームにも関わることがありますが、復活劇が現在の成功の鍵となっています。
8位:舘ひろし(俳優)
舘ひろしは、ドラマ『大都会』シリーズで名を上げた俳優・歌手です。1974年、千葉工業大学在学中にバイクチーム「クールス」を設立。当初は21名で、ポンパドールの髪型、黒革ジャン、原宿・新宿での大胆な走行で知られていました。スタイリッシュな暴走族として他の暴走族からも尊敬を受け、女性ファンも増えました。
1975年、矢沢永吉のバンド・キャロルの最後のコンサートで、クールスはボディーガードを担当。多くの女性ファンがバンドよりもクールス目当てで集まり、後にバイクチーム出身の8名で「ザ・クールス」というバンドを結成しました。舘は1976年に『暴力教室』で映画デビューし、1977年にバンドを脱退。その後、多数のヒット作に出演。ザ・クールスは40年経った現在も新メンバーで活動を続けています。俳優業の成功後も、舘はクールス時代からのハーレーダビッドソンへの情熱を持ち続けています。
7位:広末涼子(女優)
広末涼子は、デビュー当初は無垢なアイドルイメージでしたが、スキャンダルによりトラブルメーカーとしての評判が高まりました。地元の女子から「女性ギャングのリーダー」と恐れられ、当時の彼氏は改造バイクに乗っていたといわれます。キャリア初期、純粋なアイドルとして売り出されていたものの、関東連合との関わりを噂されることもありました。金子賢との交際時期には、遅刻や酩酊状態での公の場への出席など、型破りな行動が目立つようになりました。
ある逸話では、関東連合系のクラブで薬を求め、「灰皿にうんこしろ」と言われ、実際に行ったと伝えられています。金子勝は覚醒剤の配布に関与していたとされます。その後、岡沢高志と結婚。岡沢も関東連合との関わりがあるといわれます。未確認ながら、この時期の逸話から、クラブ通いや酩酊、乱行に関わっていた可能性があります。こうした背景から、彼女の非行少女としての噂は理解しやすくなります。
6位:岩城滉一(俳優・アーティスト)
岩城滉一は、1975年映画『新幹線大爆破』でスクリーンデビューした俳優です。もともと舘ひろしが設立したクールスのメンバーで、その時期ハーレーダビッドソンに乗っていました。端正な顔立ちで、多くの女性ファンを魅了しました。当初は音楽活動には関心がなくバンドには加わりませんでしたが、舘とのバイクを通じた友情により加入。血判で絆を結び、グループに参加しました。
1977年、クールス時代に知り合った人物から入手した薬物で逮捕されました。後のインタビューで「薬物注射して何が悪い?」と挑発的に発言し、華やかなギャング生活の裏の側面を示しています。兄・松田優作の支えを受け、リハビリ後に俳優業を再開。俳優業以外にも保護観察官として勤務し、少年時代の趣味も続け、クレー射撃場の会長も務めています。
5位:高島礼子(女優)
高島礼子は、レースクイーンとして活動を始めた後、ドラマ『暴れん坊将軍III』に出演した女優です。高校時代、横浜の地元レディースバイククラブに所属していました。車両好きで、16歳で原付免許を取得し、青春時代の多くをバイクに費やしました。厳格な父の下で育ち、反抗心をレディースレースに発揮。子どもの頃にいじめを経験したため、強く独立した女性に憧れ、そのたくましさを尊敬しました。レディースレースを離れた後、21歳でJAF公認レース参加資格を取得。
富士スピードウェイで最高速度230km/hで走行。プロレーシング資金を得るためレースクイーンになりましたが、経済的理由で夢を断念。芸能界入り後、1999年に俳優・古知晴雄と結婚。古知は「妻がバイクギャング出身だから、浮気したら大変」と冗談を言ったとされます。当時、高島は著名な女優で、古知は経験が少なく、「格差婚」と評されました。夫の覚醒剤関与と不倫で逮捕され、離婚には抵抗しましたが、2016年に別居。徳島のヤクザであった父と、山口組のボスを養父に持つ背景から、危険な男性への魅力はバイクギャング時代に形成された可能性があります。
4位:島田紳助(お笑い芸人)
島田紳助は、松本竜介とのコンビ「紳助&竜介」を結成した芸人です。高校時代、バイクギャングに所属していたと報じられています。反抗心は中学2年から始まり、校舎の窓を割り、盗品を教室で販売していました。非行に走った背景には、日本国有鉄道で働く父の影響があり、父が筆記試験には合格するも面接で落ちるのを見て「真面目だけでは成功できない」と考えたといいます。中学時代はパチンコ店にも多く通いましたが、部活動も継続していました。
高校時代も反抗的で、地元のバイクギャングに加入。当時、ヤクザを真剣に考え、自動車窃盗で逮捕され、少年院に収容されたこともあります。また、タバコ、シンナー、恐喝にも手を染めました。体力向上のためボクシングを始め、大会出場まで到達。この時期にB&Bの影響を受け、芸人見習いとなり、大学を中退してお笑いの道へ進みます。この選択に父は強く反対しました。
3位:氷室京介(アーティスト)
氷室京介はロックバンドBOØWYのリードボーカルで、群馬県の地元では非行少年として知られ、「エンペラー」の愛称を持っていました。その評判は非常に強力で、恐れられたギタリスト・吉川晃司ですらバラエティ番組で彼を「ストリートのプロ」と呼んだほどです。高校時代、氷室は自身の喧嘩技術を活かし、「ブラックエンペラー」というバイクギャングに加入しましたが、組織の厳しいルールの下での生活が嫌で、すぐに脱退しました。彼の非行気質は、中学校入学式でボンタンを着用したことから始まったとされ、先輩との衝突につながりました。それ以降、喧嘩に多くの時間を費やし、警察車両をひっくり返すことさえあったと伝えられています。
学生時代の友人である布袋寅泰は、「ただ怖かった」と回想し、バンド紹介の場に呼ばれた際には「殴られるかもしれない」と恐れたといいます。しかし氷室は「一度殴られたら嬉しい」と大胆な心構えで挑み、会合に姿を現しました。BOØWYのマネージャーはラジオで冗談交じりに「音楽に興味がなかったら、ヤクザになっていただろう」と語ったこともあります。氷室の荒れた学園生活は悪名高く、『フライデー』誌がかつて「少年時代に殺人で有罪」と虚偽報道したこともありましたが、彼自身はラジオで笑い飛ばしています。
荒れた青春を経ても、氷室は音楽に人生を向け、一時的にバイクギャングに加わり、喧嘩や逮捕も経験しましたが、最終的には成功したロックバンドのリードシンガーとなりました。BOØWY解散後、ロサンゼルスに移住。2011年の東日本大震災後、東北地方に約10億円を寄付しました。故郷高崎市は彼の寛大な行為を讃え、「ゴミから塵として戻ってきた」と称賛し、反抗的な青年から尊敬される人物へと変貌したことを示しています。
2位:吉瀬美智子(女優)
吉瀬美智子は2014年のドラマ『昼顔』に出演した女優です。高校時代、地元では有名な非行少女として知られていました。幼少期は家庭環境が不安定で、小学校時代に母親が一時的に家を出たことがあり、このことが反抗的な性格に影響を与えたと考えられています。10代の頃から目立つ美貌を持ち、非行少女でありながら地元雑誌に取り上げられました。制服をミニスカート風に着こなし、茶髪をストレートに整えるスタイルは、彼女の非行イメージの一部となっていました。無断で夜を明かすことも多く、帰宅しないことも珍しくありませんでした。彼女を追いかける男子の多くも非行少年であり、福岡県朝倉市という非行少年やバイクギャングの多い地域で、吉瀬は注目を集める存在でした。アルバイト先のガソリンスタンドでは、バイクギャングが彼女を見るために列を作ったこともあったといいます。高校時代の知人は、彼女が常に短いスカートを着用し、髪型もストレートで、当時から独特のスタイルを保っていたと回想しています。
高校卒業後、吉瀬は当初、美容師を目指しましたが、就職試験に失敗。その後、喫茶店や美容院で働き、そこでスカウトされて芸能界に入りました。そこから順調にキャリアを積み、『踊る!さんま御殿!!』などの番組に出演し、才能と美貌を兼ね備えた女優として認められるようになりました。時が経つにつれて、吉瀬は若き日の反抗心の源であった母親と和解し、結婚・出産後は母が東京に来て一晩泊まり、家事全般を手伝うなど、母娘の関係は親密なものとなりました。現在では温泉旅行を共に楽しむなど、深い母娘の絆を築いています。
1位:宇梶剛士(俳優)
宇梶剛士は、2024年冬ドラマ『大蔵』に出演予定の俳優です。高校を中退後、17歳でバイクギャング「ブラックエンペラー」に加入。最終的に第7代目リーダーとなり、一度も負けない伝説的な戦績で知られるようになりました。生まれつき恵まれた体格(出生時体重5,000g)を活かし、学生時代はスポーツ、特に野球で活躍しました。しかし、2人の非行少年の仲裁中に、少年院に送られることとなりました。
成人後は身長188cmの大柄なリーダーとなり、2,000人のメンバーを率い、10,000人以上を含むネットワークを監督しました。厳格な名誉規範を守り、1対1で挑まれた者とは和解しましたが、待ち伏せを試みる者には容赦なく対応しました。当時の知人は「鬼のように恐ろしい存在」と語っています。その後、バイクギャング同士の衝突に関連して逮捕され、茨城県の少年院に送られました。戦闘には参加していませんでしたが、リーダーとして法的責任を負いました。
宇梶の伝説には、単独で対立ギャングのリーダーを打ち破り、約1,000人の敵を散らした逸話があります。しかし少年院時代、チャップリンを読み、俳優の道を志すきっかけとなりました。芸能界入り後は、暴力ではなく演技にエネルギーを注ぎ、アイヌ文化をテーマにした舞台など、多方面で活動を続け、自身のルーツを反映しています。